純黒の悪夢

 朝からヘビーな話を聞かされた、と#名前2#は内心で思っていた。パンケーキはすぐに食べ終わったので今はドリンクを飲みながら話を聞いていた。 「え、じゃあ本部の方に侵入者がいて追いかけるのにライさんとカーチェイスしたんすか?」  さすがに「爆発事故起こしたんすか?」とは聞けず、赤井の名前も出せず、あえてコードネームの方で呼ぶと安室はムッとした顔で「そうですよ」と口をとんがらせた。 「それで、侵入者は今どこに?」 「それが分からないから苦労しているんです……」 「ああ、それでスプリッツァーの力を使うんすね?」  バーボンこと安室透にはスプリッツァーの存在を匂わせる話はしていた。なるほど、使える手段は使うという彼らしいやり方だ。とてつもなく赤井秀一に似ている。言ったら怒るな、これ。安室はにっこりと笑っていた。胡散臭い笑顔だった。 「分かりました。手配しときます」 「出来るだけ迅速にお願いします。長くても、今日中には」 「そんなしなくても平気っすよ。午前中の間に居場所を突き止めて教えます」 「お願いします」  ビジネスのこういった会話は#名前2#はあまり得意ではない。さっさと帰ろうと立ち上がると「なにかご予定でも?」と続けられた。 「予定っちゃあ、予定が」  #名前2#はこのあと件の水族館に行かなければならない。世祖が待っているのだ。沖野のあのチケットには従わないと#名前2#の方がどやされてしまう。 「……そうですか」 「…そんな顔しなくても。別にライさんじゃないっすから。世祖が東都水族館に行きたいっつーんでそのお守りっす」  それでは、と#名前2#はリュックを背負ってカフェを出ていく。店から彼のことを視線で追うと、反対車線のもとに車が一台止まった。日産シルビア。#名前2#の愛車。運転席には見知らぬ男がいた。本当に、まるで見かけたことのない男だった。赤いマニキュアが艶やかに光っている。#名前2#はその車に乗り込んで走っていく。その車が向かうのは確かに水族館の方向だった。 「さんきゅー、加州」 「別に。世祖待ってるんでしょ? じゃあ早く行ってあげないと。また何かに巻き込まれてるかも」 「な、なんだよそのフラグ……。やめてくれよ」  はあ?と言いたげに加州は#名前2#を見た。先ほどのカフェでの男と話してる時点でもうフラグは建っているだろうに。#名前2#の考えとは全くよく分からない。加州は呆れたようなため息をついて「はやく行こう」と車を走らせる。  高速にのり、まだまだ水族館まで距離があるなーと話していた時に世祖からRINEが届いた。 『#名前2#』 『キュラソーが記憶喪失』 『はやくきて』 『ベルモットいた』  思わず飲んでいたセルフサービスのお茶を吹き出して加州に怒られてしまった。  記憶喪失のキュラソーを助けるために少年探偵団やコナンたちも動き出したが、世祖は阿笠博士のもとにくっついていた。あまりキュラソーに近づいているのは得策ではない。それに、ベルモットからジンへの連絡が届いてしまった。ベルモットのことを#名前2#は嫌っている。勘が良すぎるから危ないと言っていた。なのでベルモットとの接触ついては特に厳しかった。へたに動いていると世祖が#名前2#にこっぴどく叱られてしまうのだ。  観覧車が空くまではここで待っていようか、と入口近くのベンチに座る。スマホを取り出して#名前2#に連絡した。その後はヒマだったので阿笠博士としりとりをする。最初の言葉は「ドクター」からだ。 「ドクター」 「たんぼ」 「ボルタ」 「たき」 「キンメダイ」 「い、いー、…いぼっ」 「ボヘミアンラプソディー」 「ほぉー世祖くんは古い曲を知っておるのう」 「#名前2#ね、つるたち、すき」 「鶴…?」 「うん」  会話が途切れてしまった。噛み合わない会話に阿笠は苦笑いする。ここで#名前2#がいるともっと楽なのだがと思うが彼が来るのはもっと先になりそうだ。  観覧車へ向かう自動エスカレーターから元太が落っこちる事故が発生した。キュラソーが助けたことに一安心だが、哀の方は彼女を組織の一員ではないかとようやく考えに至ったらしい。 「せい、そ」 「?」 「……ねえ、あの人は、」 「ちがうよ」 「え、」 「ちがう。哀の、こと、ちがう」  世祖はにっこりと微笑んで医務室に駆け込んだ。元太やキュラソー、そして元太に蹴られた阿笠を心配したような素振りでふわりと年相応の少女のように。  元太と博士の体が大丈夫だと確認したら観覧車にもう1度乗った。人数制限のため(一人あぶれたとも言える。)、コナンと哀と博士は別のゴンドラにいる。だが、ここでまたしても事件が起きた。世祖たちの乗るゴンドラが頂上に来た時に、キュラソーがいきなりうめき声をあげて倒れたのだ。世祖はいちはやく何を見てそんな風になったのか、外の景色を記録する。頭に瞬間的に記憶させて、すぐにキュラソーのもとに近づいた。 「うぅ、ううう、ああああ、」 「お姉さん!? 大丈夫!?」 「ぅぅうゔゔ、ノックは……ノックは、」 「ドア? ドアがどーしたんだよ、姉ちゃん!」  違う。ノックとはknockではない。NOCのこと、つまりスパイ……。キュラソーはNOCを調べる任務にいたのだ。裏切者をあぶりだすという汚れた仕事を請け負ったのだ。それを思ったら足元がぐらぐらとおぼつかなくなった。#名前2#はどうなるのだろうという考えが頭にぐるぐると渦巻いている。ここでスプリッツァーという言葉が出たら殺してしまいそうだった。  キュラソーを殺し、その記憶を少年探偵団たちから消すか少年探偵団そのものを殺すか。血まみれのゴンドラがちかちかと光った。いや、これはあってはならない光景だ。 「キール、バーボン、スタウト、アクアビット、リースリング……」  ああ、これはまずい。#名前2#がいない間にこんなことは起きてはならない。世祖は迷わず"力"を使い、キュラソーを眠らせた。#名前2#には使ってはいけないと言われていたが、そんなの今は気にしていられない。  急に眠るようになったキュラソーに少年探偵団たちはさらに焦るが、ちゃんと脈があることを1人1人確認させて世祖は指示を始めた。まずはコナンたちに電話。それと、下りたときにすぐに事情説明できるように光彦に話をして、元太と世祖はキュラソーを椅子に横たわらせて抱き上げやすいように膝を曲げておく。今、出来ることと言ったら……これくらいだ。  医務室で検査を受けたあとのキュラソーが目を覚ました。それには世祖は何の干渉もしていないし、力を途絶えさせた覚えもない。ただの偶然であったのかもしれないし、神様からの良くも悪くもプレゼントだったのかもしれない。ただ、タイミングはよろしくなかった。  世祖は起きているキュラソーの前で#名前2#と揃いのストラップをつけたスマートフォンを出してしまったのだ。それを見たキュラソーの目が瞬いた。 「す、」  キュラソーの次の言葉が動き出す前に世祖は頭を巡らせた。スプリッツァーなどと言い出されたら少年探偵団たちはきっと確認し始める。というか、今ここにいるのはコナンと身柄引き取りにきた佐藤刑事と高木刑事。黒の組織のなんやかんやも知れ渡る可能性がある。まさかキノはそれを狙って? いや、きっと何か別の意味があるはずだ。考えろ、キュラソーの興味が向くであろう別のことを、スプリッツァーではないことを!! 「#名前2#!」  思わず叫んだ言葉にガチャりと開かれたドアに気づけなかった。 「え、俺……?」  世祖のスマホのGPSを頼りに医務室へ来て案内係と共にやってきた#名前2#は突然の叫びにぽりぽり頬をかく。その姿にキュラソーの目がまた瞬く。伸びた手が#名前2#の腕に触れた。 「ああ、ああ……!」 「え、あ、ンンッ!?」  キュラソーは#名前2#にそのまま抱きつき、泣きそうに……いや嗚咽をもらしていた。自分の名前も思い出せない、どこから来たのかもわからない、ただ#名前2#という男に彼女はただ会いたかったのだ。彼なら安心できる、と頭が叫んでいた。  キュラソーとは呼べない。#名前2#はその頭で急いで考えて、い、い、イルサ!と叫んだ。キュラソーの偽名としてはお粗末な名前で、この前見た映画のヒロインのものだったしコナンたちにバレる可能性もあったがもう投げやりだった。 「#名前2#さん、知り合いなの…?」 「あ、いや、えっと……」 「キノ」  ボソリと世祖が助け舟を出してきた。#名前2#は苦笑いのまま沖野さんのな、部下なんだ!と叫んだ。 「沖野さん…?」 「あ、うちの保護者の名前。イルサは…そう、沖野さんの部下だったんだけど三条んとこに引き抜きされてシステムエンジニアで働いてたんだ。あー、……えっと、それで何が起きたん?」  加州、助けて。俺まじで口が回んない。涙目になりながらも語る#名前2#の顔にそんな言葉が浮かんでいた。 「じゃあ、#名前2#くんがイルサさん連れてくってことでいいの?」 「はいー。あと、脳のことも大丈夫っす。うちの世祖と似た症状なんで」  世祖と、とつけば誰もが納得をしてしまうのはなぜだろうか。佐藤刑事もそれならと安心したように「一応、署に来てもらってもいいかしら?」と告げた。 「もちろんっすよ」 「今日は自分の車で?」 「いや、友人に送ってもらいました」 「あら、そうなの」 「んでも心配してると思うんで、そいつに電話をかけさせてもらってから行くでいいですか?」 「分かったわ」  お世話になりました、と医務室の医師たちに頭を下げてから部屋を離れて数メートルと来たところで#名前2#は加州に電話をかけた。やはり数コールと待たないうちにとってくれる。 「あ、加州?」 「何、どうしたの? 世祖連れて帰るんでしょ?」 「予定変更。警視庁行かなきゃならんくなってさ。沖野さんに連絡しとていくんない?」 「はあ? やだよ、そんな役回り……」 「んじゃあ長谷にでも頼めやさ。切るぞー」 「はぁ、あ、ちょ、ま!」  無情にも切られた電話に佐藤は苦笑いしなから歩き出す。世祖は無言のまま#名前2#に張り付いて剥がれなかった。  書類を書くのに手間取ったが、きちんと沖野さんの手配が回ったらしい。キュラソーはイルサ・ファーガソンというアメリカ人だと設定することが出来た。  また病院に検査しに行くことを念押しされて、#名前2#は警視庁を後にした。送ろうか、という言葉にはありがたく遠慮させてもらって#名前2#は怒りっ腹を立てた加州を再び呼び出すことになった。 「どうすんの?」 「ああ?」 「こんなことして。また誰かに狙われるよ」 「……そうだな」 「あの女、助けるには重すぎる。#名前2#なんかすぐに一緒に沈んじゃうでしょ」 「……ああ」 「……あー、もう! ちゃんと聞いてんの!? 俺、これでも心配してんだよ!!?」  ばしん、とハンドルを叩く加州に#名前2#はビックリしながらも苦笑いで「何も助けきれるとは思ってねえよ」と言う。 「ただ、キュラソーがむざむざと捕まえられるのは見てらんない。別に、公安やFBIが心配とは言わねえが」 「……」 「出来るだけ、静かに弔いたいんだ。ベルモットが来てたってことは奥にいるのは十中八九ジンだ。となると、ジンは容赦なくキュラソーに襲いかかる。公安やFBIの誰かに捕まっていたなんてことあいつらにとっちゃ裏切りと同じだからな」 「……組織に返すの?」 「そうしてやりたい。どんな未来に向かうか分からんが、そうなればいいとは思う」 「………」  キュラソーは寝た振りをしたまま身じろいだ。自分の存在が#名前2#という男の枷になっている。今の言葉のやり取りはそうとしか思えなかった。きっと自分の名前はイルサではなくキュラソーだ。聞いていた中でそれがしっくりときた。  車がどこかに止められて、キュラソーの体が持ち上がる。運転手の彼も#名前2#と共に家の中に入る。世祖もだ。ベッドに横たえられて「おやすみ」と布団をかけられる。去り際に握られた手がとても優しくて泣きそうだった。  ごめんなさい。私なんかを助けてくれてありがとう。  書き置きにはそう記した。零れた涙を拭ったら、書き置きの紙に滲んでしまった。だけど他に書けそうな紙はない。このままで行こう、と窓に足をかける。夜の寒さは、スカートとブラウスのキュラソーには応えた。