04

小さな頃から蟲蔵に連れていかれることは恐怖だった。兄よりもなまじっか才能があると見なされたことは俺にとって不幸の始まりだった。おぞましい形をした蟲が自分の体を這いずり回る恐怖は今でも夢に見てしまう。行きたくない、と叫んだら入れられる時間が長くなるだけで俺は父親の間桐臓硯の言いなりに動くのが精神衛生上いちばんよろしいことだった。腕を掴まれて蔵の扉を開けられたその先に突き落とされる。階段なんてものをきちんと降りたことは無い。外道のしわくちゃの手に押されて突き落とされるのだ。下に蟲が潰されるあの感覚がとても恐ろしい。そんな時蟲たちは仇をとるかのように激しく自分の体を蹂躙する。ああ、こんな事なんで思い出してるんだ俺は。吐きそうだ。 ……そうだ、そんな時に蟲が消えた。全て、全て。それこそ塵一つ残さないというのはこう言うことを指すのだなと思うぐらいに蟲は消えた。それと同時に爺が姿を消した。何かを探す素振りをしながらどこかへ消えていった。爺が帰ってきた時、奴は車椅子に乗って遠いところを見るようになっていた。車椅子を押して来た人が兄を、ひいては間桐の家を助けてくれた魔術師だった。仕立ての良さそうなスーツを着て、髪の毛をオールバックに撫でつけているのにまったく下品さがなく、それでいて優雅な人間でもなかった。強さを体現したならばこうなるのではないか、という雰囲気だった。後から兄から聞かされたのはその人が極東のマキャベリストという魔術師の中では恐れられている人だということだ。更にはかなりの右翼らしく、とある計画で人類すべてを殺そうとしたことでも悪名高いそうだ。 彼は家にいた雁夜を見つけて「やあ、君がここの息子かい?」と聞いた。頷いたら、なぜか笑い出して心が貧相だなあと頭を撫でて「もっと世界を見つめるべきだね、君は。……ああ、彼は君のお兄さんかな? うん、彼の方が適度な野心と視野の広さを持ち合わせているね。少し躾が必要だが、それでも充分当主の素質がある」 魔術師の後ろに学校から帰ってきた兄がいた。兄はその時まで何も言ってないのにどうしてそこにいると分かったのか今でも謎だ。兄は車椅子に乗った爺に驚いてひぃぎゃあああああと奇声をあげた。 「初めまして、君、名前は?」 「…だ、誰が初対面の男に!」 「僕は沖野という魔術師だ。君が父親に魔術師の話わ聞いていたなら、この意味は分かるだろう?」 殺気と寒気が一気に沈み込むように周囲を襲った。沖野さんを中心にして頭に重しを入れられたようにガタガタと体が震え出す。爺も車椅子の上で震えながらいやだいやだいやだと小さく呟いた。 「まままま、間桐、び、鶴野だ」 「では鶴野、次の間桐の当主は君が継ぎなさい」 「え、あの、」 「それじゃあ中に入らせてもらおうかな」 僕は名を名乗ったし、君たちの父親を運ぶ名目があるからねと沖野はガタガタと入っていく。それが初めての彼との出会いだった。 「今は沖野#名前2#と言います」と言った彼が沖野としか名乗らなかった魔術師と被ってみえた。姿も素振りもまるで違ったがその雰囲気は未だに変わっていなかった。人を殺すことが当たり前のようなそんな彼は現れた時になぜか駄々をこねるように縋りついて泣きすする少女を抱えていた。桜ちゃんと同い年ぐらいだろうか、身長の小さな女の子で体に似合わない大きな赤色のランドセルを背負っていた。アンバランスさに気を取られていたら、なぜか彼は手を拭いて握手するように差し出してきた。潔癖症なのかと慌てて俺も拭いたら、#名前2#さんという人は首をかしげてそして少女を下ろし葵さんのもとにやった。口にしていたアイという人が誰かは知らないが、きっと少女と同じく彼に大切にされていた子なのだろう。 少し歩きましょうかと誘われて歩き出した。彼は雰囲気と違って存外穏やかに話した。桜ちゃんに声が届かないところではやく養子縁組の話をしたかった。あまりにも性格が破綻していたら桜ちゃんを誘拐でもしてやろうかと思ったが杞憂に終わった。彼は普通に桜ちゃんを可愛がって、育てようとしているのだと目が語っていた。この前の取材で障害者とその親の記事を書いた。親たちは世間一般に言うところの辛い選択をしているのに明るく暮らしていた。この子達がはやく自立して生活できるように支えるのが私たちの役目です、とまるで教科書通りの宣言がその母親の言葉には力があって俺にはどうしてそういった言葉を出せないのか嫉妬したくなった。横を歩く彼の目はその母親と同じ目をしていた。自立とは、言うのは簡単だけどするのは難しい。させるのはもっと難しい。魔術師みたいに常識とかけ離れた存在になるとそのハードルはぐんと上がる。だけど#名前2#さんはそれを選び実行したいと考えているのか。それなら、会いに行くぐらいは許してほしい。あの子のことを、ずっと見守ってきたのが俺だという自負はあるのだ。そう思って顔を見せるのに許可をもらおうとしたら、彼は全くわからないという顔で「何でそんなことを聞くんだ?」と逆に聞いてきた。あの時、魔術師と一般人がどれほど違うのかを身にしみて感じさせられた。普通の人間は聞かないのだろうか。会いに来てもいいと言われただけでなぜか泣きたくなった。自分はそうやって優しい言葉をずっと求めてきていたのかもしれない。葵さんのような人を好きになったのは君のその内心に生まれたある種の自尊心と共存できない弱さの所以だね、と笑った沖野さんの言った意味がようやく分かった。泣き出した俺を#名前2#さんは優しくもない手つきでべいんべいんと叩かれた。痛いし驚いたしで泣き止むかと思ったがなぜかもっと泣けてきてすごい勢いで泣いてしまった。#名前2#さんはなにか喋っていたけどぐわぐわと揺れた頭では聞き取れても何言ってるか理解は出来なくてただ優しい言葉をかけられてるんだなとだけ分かっていた。葵さんたちを近づけないようにしてくれたことは本当に感謝だ。痛いけど。 あの女の子が障害持ちであるのは予想していたが、まさかサヴァン症候群だったとは。俺は会ったことはないが天才と名のつく病気だけあってその症状は様々で対応するのにも大変だと聞いたことがある。昔よりは理解も深まったが、まだまだバイヤスの消えない世の中では生きることも大変だろう。お気の毒に、と思ったがある意味この同情が彼らの雰囲気のもととなるのかもしれないと思って声をかけるのをやめた。ルポライターになって、間桐の名前の意味を知った上で褒められたのは初めてのことだった。 「俺の家に来ますか?」と聞いた俺を見て#名前2#さんはけらっと笑って「お前、そのまま詐欺られたりすんなよ」とさっきよりも強く背中を叩かれた。泣いたばかりで涙腺のゆるくなっていた目はまた涙を浮かべて、俺は痛いですと呟くのが精一杯だった。仕事の仲間でさえもこんなにパーソナルスペースの狭いような人はいないので、どう対応すればいいのか分からなくて体を縮こまらせた。 「そういえば、お前さんは聖杯戦争って知ってるか?」 「魔術師のですか? 一応は。兄が令呪を出しましたが、沖野さんのところに行って譲渡したと……」 俺はそこで言葉を止めた。兄は令呪が出てから悩んだ挙句沖野さんのもとに行ってくると家を一週間ほど空けたのを知っている。いない間は家の管理と称して実家に戻っていたから。……そして、目の前の人の眼光に隠れているがその瞳にあるのは 「そっか、これ間桐のものだったのか。悪いことしたかなあ」 「え、あ、あの。その目にあるのってやっぱり……」 「令呪なんだよなあ」 ひぇー、という感じだった。いや、うぎゃぁああと叫びたいような何とも形容しがたい気持ちだ。まさか沖野さんに譲渡されたと思っていた令呪が#名前2#さんという人のもとに行くとは。しかもきちんと聖杯に選ばれて令呪がその体に刻まれている。 「まあ、合意っぽそうだから有難く受け取るわ」 「あ、どうぞ……。兄には苦重すぎる話だったので…」 普通の魔術師ならば根源に行くことを目指すのが当たり前だがうちは爺もひどいし兄は魔術師としての才能が全くと近しいほどになく、今は沖野さんにもらった魔術回路を使っているぐらいなのだ。聖杯戦争に参加してもメリットがなかった。時臣には何か言われるかもしれないことだったが、この人には文句を言わせないような雰囲気がある。……いや、言わせないのではなく言っても意味がない気がしてきた。受け流してへらへらと笑って怒るだけエネルギーの無駄遣いと思わせるような、そんな。 「……あの、もしかして。時臣の家にいるのって、」 「ああ、あいつに協定申し込まれてるからかな」 だがなあ、ちょっと問題があってなあ。と顎をさすった#名前2#さんにやっぱり家に呼んだ方がいいんじゃないかと思った。そうすれば桜ちゃんも来てくれるんだし。 「やっぱり沖野さんに家にいたいって言うかな」 「……」 なんだよ、と呟きたくなったがまあしょうがない。会ってまもない男の家に遠慮せず来いというのは土台無理な話だ。 「世祖、話、終わったー」 あまり大きい声じゃなかったのに、桜ちゃんと凛ちゃんと駆け回っていた世祖ちゃんはダッシュしてそのまま#名前2#さんの腰にダイブした。羨ましいなあと思ったけどかなり痛そうなので俺は受け止めきれないなと確信した。 「#名前2#、かえる!」 「その前にやることあるから」 「#名前2#お父さん、私も手ぇつないでー」 「はいはい」 「#名前2#、寒いー」 「手え繋いでるんだから我慢してくれー。後でコート買うから」 「#名前2#お父さん、目が赤いよ?」 「さっき世祖のダッシュで砂入っちまったかな」 桜ちゃんたちの怒涛の言葉攻撃にひとつひとつ返して凛ちゃんの方を向いて頭を撫で回した。 「凛はしっかりお姉ちゃんだなー! さすが時臣の子ども!」 そこは葵さんの子どもでよかった。 「#名前2#さん、雁夜君。お話、終わりましたか?」 一瞬の間が開いて俺が今返事をするべきなのか、と口を開いたけどなんでか口がかわいて言葉が出てこなかった。 「ぁ、く、…」 「え?」 「話は終わったから大丈夫だよ、葵。もう家に帰れる」 そう、と#名前2#さんに微笑んだ葵さんになぜかドロりとした感情を感じられなくなった。この人が好きなはずなのに、#名前2#さんに嫉妬するような感情がないということは、つまり…、 「帰ろ!」 世祖ちゃんの大きな声で考えが遮断された。#名前2#さんは桜ちゃんと世祖ちゃんと両手を繋いで歩いていって、その後を凛ちゃんと葵さんがついていく。「またね、雁夜君」と言われて小さく手を振った。またね、と言われた。またがあるのかと思うと心が弾む。だけど、せっかくの有給が疲れたなあとつぶやく声が聞こえてなんとなく申し訳なくなった。