記憶喪失になった男

 綺礼には神様がいる。とってもかっこよくて、とっても賢くてとっても綺礼のことを大事にしてくれる人だ。彼は神様なので綺礼のことを撫でてくれても性的な接触は一切なかった。していいんですよ、と迫っても彼はすぐに逃げてしまう。それが残念でたまらなかったが元からそう言う性格だと周りから何十回、何百回と言われて少しだけ…ほんの少しだけ諦める気持ちが着いた。ほんの一欠片の諦めは一日で消えて次の日からは無意味なものになったので捨てた。  神様がどうなろうともこちらからの繋がりは切れない。勝手に思っていてもいいのだ。そう思うと心が楽だった。見返りは欲しいが関係がゼロになることの方が怖かった。  綺礼の神様は人間だったが横には刀の付喪神がいた。名前に神とあるがいわゆる精霊のようなものだ。唯一神のように全知全能…ではないがより強い力を持った時には綺礼なんててんで相手にならないのだった。その刀の名前は三日月宗近。無機物が#名前2#さんの隣にいるなんて、と思うと向こうは精神障害者が#名前2#の隣に立とうなんて、と返した。障害ではない、と思ったが自分で自分を考えるほどよく分からなくなり#名前2#に泣きついた。#名前2#の言うことならば何でも信じられた。「大丈夫だ」という一言だけでよかったのに彼は「あはは、綺礼が障害者だったら俺や世祖はもうぶっ壊れて人間じゃないよ」と笑ってくれた。ふふふと笑った。三日月宗近は何も言わなかった。やっぱり#名前2#さんは正しいのだ、と思った。精神障害者だとは言われなくなったが代わりにお前のような感染源が隣にいるなんて、と新しい言葉に取って代わられていた。何の話か分からなかったのでその日からより一層清潔を心がけるようになったが今でも感染源のままだった。  ある日間桐の家へ行く用事があった。遠坂から間桐へ書状を送ると聞きわざわざその仕事を受け取った。ほんの些細なことだった。この家には同じく#名前2#さんを崇拝している男がいる。その男は神ではなく何か別のものとして#名前2#さんを見ていたが話を聞いてくれるので別に構わなかった。芸術家だという男が描くものは何も良さが分からなかったが本人は楽しそうだった。たまにだが#名前2#さんも絵を描くと聞いて見せてもらった。何が書かれてるのか薄らぼんやりと分かった。海だった。彼から海に行きたいとか、海が好きだという言葉を聞いたことは無い。だがそこに映っていたのは海だった。水面に向かって何かが伸びている。良いものか悪いものかは分からない。ただその絵を見た時になぜか人が死ぬ瞬間を思い出した。 「これ超COOLだよな」 「クールか?」 「#名前2#さん、何かにしがみつけないのか、自分からこっちに来たのか。よく分かんないけど嫌なところにいるじゃん」  ほら、と見せられたところにぽつんと黄色い点があった。青に塗りつぶされては黄色に薄く色が重ねられているのか周りが薄らと緑にも見えている。 「油絵なのにそのまま塗りたくるもんだからひどい有様だけど。でも、この絵はきっとなにか込めてるよなあ。絶対良くないものだよ、こんなの」 「……例えば?」 「えー? それ聞いちゃうー?? んー、そうだなー」  適当なことを言っていたのか龍之介は顎に手を当てて考え始めた。クルクルと筆を回し洗浄液が跳ねる。数歩離れたところで見つめていたら龍之介は「やっぱり分かんないわ」と笑った。特に期待してなかったので「そうか」と返したが龍之介は「あんたの方が分かるのかもね」と爆弾を落とした。 「私がか?」 「うん。あんたが、だよ」 「私は芸術のことなど何もわからん。それどころか」 「美しいものが美しいと思えないだっけ? でもさ、それってただの言い訳じゃん?」 「事実の説明だ」 「違うよ、誰に説明したってそんなの受け取ってもらわなきゃ言い訳じゃん。ほら、見てみなよ」  絵をぐっと近づけられた。この絵に何があるのかやはり私にはわからなかった。ただこの絵を見ていると心の奥深くの何かをがっしりと掴まれるようなそんな感覚だった。  この家に訪れる理由は龍之介との会話、もあるがそれよりも大きなものはこの家に刀剣も連れてこないでゆっくりとくつろぐ彼を見に来たのだった。 「#名前2#さん」 「……。ああ、どうもこんにちは、言峰さん」  この神様には記憶がなくなってしまった。サーヴァントや聖杯戦争に関する一切の記憶が無くなったのだ。お陰で綺礼や龍之介などは忘れ去られて遠坂だけはきちんと名前を覚えてもらっていた。言峰さんと呼ばれるとくすぐったい反面、彼は名前呼びだったのにと寂しくなった。……悲しくはないのだ。辛くもない。だが、寂しさはある。この人にとっての自分はそんなものだったのか、と。置き忘れてしまうほどにちっぽけだったのかと。 「言峰さん、お仕事は?」 「今日は特にないので、少し出歩いていました」 「なるほど。今日は天気もいいですしね。……俺の方は洗濯物を終えたら疲れてしまって。困りましたよ、いつの間にか俺の体はこんなに鈍ってたのかと」  貴方はよく頑張っておいでだ、と言おうかと思ったがやめた。まだそんなに仲良くない男にそんなことを言われるのは気持ち悪いだろう。綺礼は#名前2#にしか働かせない常識からそう判断して「今日はリハビリにどこか行きますか?」と聞いた。 「そうですねえ。今日は久々に弟の家に行こうかと。桜も連れて」 「いいですね。ご一緒しても?」 「もちろん」  手を取りソファーに座っていた彼を起こした。前に会った時よりも体はやせ細った気がする。ちゃんと食べていますか、と聞くと笑うだけ。 「昔は誰かが助けてくれた気がするんだけどなあ」  その懐かしむような言葉に胸がチクリといたんだ。  #名前1##名前2#の記憶喪失は簡単なことで事故が原因だった。ありふれた設定だが、それが最愛の人に起こるなんて誰が思うだろうか。お涙頂戴のドラマじゃあるまいし、と訪ねた先で綺礼の神様は「あのお、どちら様ですか」と聞いてくるのだった。なぜ自分は覚えているだろうなんていう自信があったのか。  彼は聖杯戦争についての記憶が無くなっていた。サーヴァントはそれに耐えきれなくなったのか姿は見せなくなっていた。彼女がいなければ刀剣男士も出てこない。綺礼は晴れ晴れとした気持ちだった。だがそんな気持ちもすぐに萎んだ。神様は聖杯戦争という繋がりがなければ綺礼はただの聖職者。しかも神様本人は信仰していない宗教ときた。#名前2#はよくある檀家に入っているが宗教的行事は一般人と変わらないレベルでしかやらない。特にキリスト教なんていうものは日本での誤った知識によるものぐらいしか知らないのだ。気遣うようにして綺礼を見る視線も距離を感じさせた。  震える声で「私は言峰綺礼と言います」と名前を名乗った。向こうはなぜ神父がここにいるんだろうと疑問を持った顔で「#名前1##名前2#です」と答えた。 「……病室、間違われてませんか。それとも、俺はーー」 「貴方に、……武道を教えていたのです」 「え?」 「八極拳というのですが、これでも免許皆伝しております。人に教えることは、貴方が初めてでしたが……その」 「……それじゃあ、俺の師匠になるんですかね。はは、面白い! いいなあ、その時の記憶がなくなってるっぽいんです」 「…はい、いえ、あの、……聞いております」 「はいなのかいいえなのか分かりませんね、あ、すみません、椅子に座ってください」 「……どうも」  #名前2#は綺礼のとっさの嘘を信じたようだった。からかいを含んだ声で俺は貴方を師匠と呼んでましたか?と聞く。いいえ、と答えた。だが、綺礼と呼び捨てだったと言うと変な感じがする。 「綺礼さん、と呼ばれていました」 「んん~~、名前かぁ。んー、自分は慣れないので言峰さんとお呼びしますね。ああ、それとも師匠と今からでも呼びましょうか?」 「からかわないで頂きたい、苗字で結構です」  咄嗟に答えた言葉に#名前2#は笑っていた。わざとけしかけられたのに思わず乗ってしまった。彼は自分の嘘に気づいているようだった。途端に怖くなった。彼には自分はどんなふうに映ってるだろうか。神様に捨てられでもしたら自分は、自分はーー…。 「兄さん!」 「あ、時臣」 「兄さん、記憶喪失になったとは本当ですか。私のことは覚えていますか!?」 「ちょっと待てよ、さすがに弟のことまでは忘れてなかったよ」 「…そう、ですか」 「師よ、私はこれで失礼します」 「ああ、綺礼。助かったよ、すまないね」 「いえ」  扉を開けてそっと壁に張り付いた。アサシンの名を呼ぶと霊体化したまま返事があった。気配を遮断したまま中に入り話を聞いてこいとだけ命令してその場をあとにした。時臣のことも忘れてるのかと思ったらそうではないらしい。さっきの嘘が呆気なくばれて、#名前2#に何と思われるかそれだけが気がかりだった。