夜を終わらせる火種はなににする
明治という世はどうにも整合が難しい。#名前2#は洋装で筆を鼻と唇ではさみながらぐぬぐぬと考え込んでいた。それにそっと後ろから近寄ってくる女がいる。びゅっと放たれたお茶っ葉は#名前2#の頭に勢いよくかぶさった。わあっ!? と返事をあげる#名前2#に女はくすくすと笑いながら回り込んだ。いつも結わえられている綺麗な髪の毛に、#name2#と同じく体に合うように仕立てられた洋装の服。#名前2#のいる小泉家の一人娘である沙羅だった。沙羅さん……。#名前2#の疲れたような声を聞いても沙羅はにこにこと笑顔のままである。 「#名前2#さん、こればっかりは考え込んでいても仕方ないです。仕事してください」 「と、言われてもねえ。ねえ沙羅さん、お父様に言っておれのことクビにしてもらえないかしらん」 「無理ですよ、父の性格をよおくご存じでしょう?」 「……ですよねえ」 #名前2#は本来ならば成金貴族のもとで働く人間ではなかった。彼の居た場所はもっとすさんだところである。学もなかった男がなぜ小泉邸にいるのか。とある事情で継ぐべき実家もなくしてしまった彼は、なんとか気楽に死ねないかと考えるようになった。しかし、彼の体は自分が思っているよりも体が丈夫であった。#名前2#は「丈夫」と言ったが、普通に言うならば丈夫よりさらに上の「殺されない」体であったが、#名前2#はそれに気づくこともなかった。#名前2#はねこいらずを飲んでも死なない自分に驚いて、川へと飛び込んでみた。しかし、あいにくとその川には飛び込み自殺をする人間を助けるばあさんがいた。後の世では小説になるばあさん曰く「自殺なんて馬鹿なことを考えるんじゃ無い」ということだった。#名前2#は聞く耳を持たず、そのまま海へと飛び込んだ。そして、彼の運命は動き出してしまったのである。 「自殺のために海に飛び込んだはいいものの、そのままアメリカ人に助けられて向こうで働き口を見つけてしまったんでしょう? いいじゃありませんか、今の時代。外つ国との友好関係はいかに大事か、よくおわかりでしょう?」 「そうは言うけどね。向こうでまっとうな仕事に就いてたわけじゃないんですよ。あっしはただ、雇われて歌ってただけの人間なので」 「あっしは禁止」 「……わたし」 「そう」 沙羅に「今度のパーテイーでも気をつけてね」と言われて新しい楽譜を渡された。ため息をつきながらも受け取った彼はそれを何回か眺めると窓際においてまた筆をとった。 #名前2#という男は不可思議だ、と真次郎にも長瀬たちにも言われる。彼がいると商談がすすむ、というのは噂話じゃないのかと言われるが実際のところそれはアメリカでもずっと言われていることだった。むしろ、商談にくる海外由来の相手に「君があの……! やあ、逢いたかったよ!」と言われる始末である。沙羅はその光景をドアの外からこっそりと見ていた。彼女が見たものは特に危険でなければそのまま真次郎と長瀬たち若様組の耳にも入れられる。沙羅のまわりに男がいることに色めきたっていた働きものたちは話を聞いて「これは違うぞ?」という気持ちになった。#名前2#が彼らと出会うことになるのはそれからすぐのことだった。 #名前2#がまた外国へ行くへ行くという噂がたっていた。#名前2#の性格を知っている人間たちは「そんなことは」と思っていたが、一向に彼から否定の連絡がなかった。#名前2#がようやく風琴堂におとずれたとき、すぐに若様たちは集まってきた。 #名前2#はのんびりした姿で真次郎の作ったドーナツを食べていた。うまいうまいと口にほおりこむ姿は饅頭でも頬張るようだった。 「それで、なんであんな噂がたったんですか?」 園山の言葉はいつもまっすぐである。長瀬や福田が慌てている横で園山は平然とした顔で見ていた。その顔はなぜかいつもより険があるように見えた。うわ、ソノさんの顔やばいよ。誰かのそんな言葉さえ聞こえてきそうだった。それに対して#名前2#はのほほんといつもの顔をしている。 「ばれたの、どこからなのか気になるんですけど……。新しい噂だったら本当ですよ、またアメリカへ行きます」 「なぜ」 園山は#名前2#の言葉にすぐ反応した。刀の切っ先があてられているかのようだった。 「……なぜって言われても。当主から仕事を投げかけられたので」 「……そうですか」 「ええ、わたしもあの人には逆らえません」 「いつ行くのですか?」 「一週間後でしょうか」 話すのが遅い、と園山は#名前2#をにらみつけた。真次郎たちは「そんなにすぐなのか?」と言う。 「ご当主も未来のことを考えてるのでしょうね……。わたしはただの先駆けですよ」 その言葉の言うとおり、#名前2#は沙羅がアメリカへ留学するための布石として向こうに飛ばされるのである。だが、真次郎たちにそこまで言う必要は無いと#名前2#は笑ってごまかした。 その夜、#名前2#は堀近くでのんべんだらりと酒を持って待っていた。江戸時代の制度のままだったなら、近づくことさえなかったであろう屋敷である。がたり、と音をたてて未来を担う若様が出てきた。#名前2#はへらりと笑って出迎える。 「ばかやろう」 「永いお別れですねえ」 #名前2#は笑ったが園山には笑い事ではなかった。もう一度#名前2#のことをなじった。 「笑い事ですよ、大丈夫」 「……向こうでは、ちゃんと生きていけるんですか」 「生きていけると思うけど。前回もそうだったしねえ」 「思う、では困るでしょう」 「そうかもしれない」 けたけたと#名前2#は笑って園山のことを見た。女を一目で惚れ込ませるような顔のまなじりが赤くなっている。本当に。この男は美しい。いつか彼は女を嫁に家族をつくるのだというのに。自分のような男にひっかかって可哀想だ、と思った。アメリカでもそういう話は聞いていたが、まさか自分も同じようなことになるとは思ってもみなかった。#名前2#、と名前をまた呼ばれた。 「生きててください」 言われずとも、と#名前2#が笑う。二人で酒を飲みながら昔より見えにくくなった星空を見上げた。 「アメリカでも星というのは見えるのでしょうか」 「こっちよりかは見えにくいが……。見えないことはない」 「そうですか」 おれは、星をみたらあなたを思い出します。絶対に。 園山の力強い言葉に#名前2#は流れそうな涙をこらえた。ありがとう。小さな声だったが園山にはきちんと伝わっていた。