リップクリームノイズ
新しいシャーペンの使い心地がかなりいい。元々のシャーペンのガワは自分で買った。中身の芯が分からない。この前、机の上に置かれていただけのものだ。あのノートの切れ端がなかったら嫌がらせかと軽く騒ぐところだった。 シャー芯は紙に引っかかるように書けるのに負担はそれほどない。むしろ心地いいとさえ思う。不思議だ。 「HBじゃないんだよなぁ」 シャーペンをくるくると回してキャッチする。自分でも上手くできたと思った。机の上にはまだ空欄が輝くプリントがある。余白の美だ、と言ったら先生は笑ってくれたが逃げさせてはくれなかった。教科書とかを見てもいいから、と言われているが補習のプリントは全く終わらない。バリバリの理系である自分には国語の問題は全く分からなかった。漢字はいいのだ、かっこいいから覚えられる。この傍線部だとか、筆者の主張を答えよだとかそういうのは苦手だった。 手元にあるシャーペンを回すと風に揺られて落っこちた。下手くそめ、と呟いて手に戻す。窓際にずりずりと動いて外を見た。グラウンドから声がしている。下の階にある理科室からキャイキャイと声が聞こえている。いいなぁ、俺も部活に行きたい。またペンを回した。 少しだけ空気を入れ替えて席に戻った。さて、何とか提出点は貰わなければ。真面目に取り組もうとしたとき、カタリと音がした。窓はもう閉めた。まさかポルターガイスト? それともGと呼ばれる虫だろうか。じっと窓を見ていたら扉の開く音が聞こえた。白馬が扉を開けていた。いつもかっこいい彼がゆっくりと扉を開けるというまどろっこしいことをしているのはおかしくて「白馬、お疲れ様」と頓珍漢なことを言っていた。 「補習かい?」 白馬が質問した。頷くと近寄ってきてプリントを見る。 「表が評論、裏は小説か。高瀬舟って中学のやつじゃ?」 「先生が俺にはこれでいいって」 「……」 白馬は何かを察したように俺の隣に座った。椅子だけこちらに寄せてプリントに指さす。 「#名前2#くん、評論は文の構造の理解が必要なんだよ」 「構造?」 「そう。細胞にミトコンドリアや核が必ず入ってるように評論にも構造がある。いわゆる、序論本論結論」 「へー」 これは大学でも使える知識だから持ってて損は無いと思うよ、と白馬が笑う。良い奴だ。薄いピンク色で爪が切られたしなやかな指がA3のプリントの上を泳いでいく。呪文のように見えていた有象無象たちが彼の言葉でしっかりとした世界を作っていく。彼の魔法は謎を解くだけじゃない。トリックを考える頭は人に同化する頭で、彼はそのように問題を解いてしまう。 「じゃあ、このつまりって所からまとめに入ってるんだな。この段落は結論になる」 「そういうこと」 白馬が笑う。ありがとな、というと白馬は照れたようにはにかんだ。そして俺のシャーペンに目を向けると「珍しいシャーペンだよね、それ」と言った。 「これ、楽なんだ。芯が折れなくて。筆圧強いからバキバキ折っちゃってみんなに被害出てたけど。今は少ない。 「はは、被害か」 「なあ、白馬。探偵は、シャー芯の種類とか分かるのか?」 「え?」 「このシャー芯、貰い物なんだ。すごい使い心地がいいんだけどどこのか分からなくて。折らないよう気をつけてたんだけどもうそろそろ終わるんだ。銘柄が分かったら買えるだろ?」 白馬からみるみると血の気が失せていく。深呼吸して彼はそっと「そのシャーペンを貸してくれるかい?」と言った。 オレンジ色のシャーペンが白馬の手に握られた。芯が折れないように力が入った時にはペン先が伸びる仕組みになっている。俺の角張った字よりも流麗で細い字が紙の上に現れた。その文字はきっちりとしているがどこか小さく畏まっている。 「うん。……うん、そうだね。これは」 「はは、シャー芯の銘柄まで当てられたらホームズみたいだ」 俺の言葉に白馬は残念そうに笑った。突然彼はシャーペンを俺に返すと「いやぁ、ホームズにはまだ遠く及ばないよ」と言う。 「イギリスじゃホームズはヒーローだもんな?」 何か地雷でも踏んだのだろうか。茶化すように言ってみると白馬は悲しそうに笑っていた。 次の日、下駄箱にあのノートの切れ端とシャーペンの芯が置かれていた。これを使ってください、とノートに書かれていた。彼は白状したのだった。俺にもう勝てないと思ったのだろうか。 「ふは」 なぜか、笑えた。 どうしようどうしようどうしよう。その気持ちでいっぱいだった。彼に見破られたと実感した。もうこれ以上はいけない、そう分かっているのに。 「白馬」 「!」 廊下を歩いていた彼が笑いかけた。 「シャー芯ありがとうな、やっぱすごいよ白馬は!」 手を振ってお礼を言った。たったそれだけのことに心が掴まれてぎゅっと痛くなった。彼にとってはなんてことの無い会話だろう。それは分かっている。あのシャー芯のことだって、補習の話だ、きっとそうなのだろう。ただそれだけでは白馬の心が収まりきらない。好きだという思いが溢れてしまう。 「うぅっうう」 心の中で呟いて白馬は#名前2#に手を振った。#名前2#も満足気に笑ってまた歩いていってしまう。その隣を歩けたらいいのに、と思い上がったことも考えてしまった。そうならないように、と匿名を装ったのに。 「白馬くん、大丈夫?」 「え?」 「なんか顔色悪そうだよ……」 「あ、ああ、いや。大丈夫、ありがとう中森さん」 平常の自分も装えない。参っている。#名前2#への恋心のせいだと分かっている。これを捨ててしまえばいい。もしくはこっぴどくフラれてしまえばいい。#名前2#の心に面白いことをするやつが残ってくれればそれでいい。ずくずくと痛む心をぎゅっと押し潰した。いらないと分かったのなら徹底的に叩きのめすまでだ。 そうやって思い出も恋心も黒く塗りつぶし、泣いている自分さえも心から追い出そうとして、自分は一体何をしてるんだろうかと聞いてみたくなった。#名前2#に会いたかった。トイレに行って鏡で見た自分はひどく情けない顔をしていていつもの表情さえも分からなくなっていた。
まただ。また、唇が切れている。きれいな桃色の唇なのに薄い皮が剥けている。いつだったか、唇は皮膚の種類なのだと聞いた。皮が剥けるのは乾燥するせいで、手や足と同じなのだと。 ああ、真っ赤なところが2つも出来ている。薄い皮を#名前2#はすぐに破ってしまうのだ。本人は無意識にちぎってしまうので、血が出てくると「ああ、やっちまった」という顔をする。痛いと言いながらちぎるのは止めない。指にできたささくれを取るのと彼の中では同義なのだ。 しかも血を舐めてしまう。唾液のせいで唇はさらに乾燥してしまう。悪循環だった。 彼とは仲がいいわけではない。授業前などで会ったら話す程度。その時も、#名前2#の横に友人がいない時という条件付き。 男だってリップクリームをしないと唇が乾燥して切れてしまう。いつも筆箱に仕込ませているのだが、今日はカバンの中にもう一つある。#名前2#がこれ以上、唇を傷つけないように用意したものだ。 女の子たちが使うような可愛いものではなくて、普通の、薬用の……リップクリーム。渡してあげたい。ストーカーたちの気持ちがなんとなく分かる。自分のプレゼントしたものを使ってくれたら相当嬉しい。僕はストーカーではないが。 けれど、どうやって渡せばいいのか分からない。たまに話す男から突然、リップクリームを渡されるなんておかしいだろう。 仕方なくノートの切れ端にメッセージを添えて下駄箱に置いておくことにした。メッセージを書いて教室にあったセロハンでとめる。下駄箱に行こうと思ってちょっと考え込んだ。下駄箱にあるリップクリームってどうなんだ? カバンに入ってると変な風に思われそうだし、机の中は見てもらえない可能性が。 考えて仕方なく下駄箱にすることにした。ノートの切れ端は捨ててノート1枚に大きく貰ってくださいと書いて手紙になるように折りたたんだ。靴の上に手紙を置いて畳んだことろにはさまるようにリップクリームをくっつけた。不格好だが、ここから開くと分かるようになったし、まあ……いいだろう。 翌日、#名前2#が友人にリップクリーム貰っちまったよといじっているのを見かけた。少しはみ出すくらいに塗られた唇は血色をよくさせている。#名前2#がいつもよりかっこよく見えた。 嬉しかった。役に立てたのだ、と思った。 「よお、白馬」 「ああ、#名前1#」 「聞いてくれよ、俺に妖精さんがプレゼントしてくれたんだ」 「妖精?」 「俺が勝手につけたあだ名だけど。なんか、誰かが俺の下駄箱にプレゼントをくれるんだよ。変なものじゃないし、ストーカーみたいに手紙送り付けてくるわけじゃないから貰ってるんだけど」 「そうなのか。珍しい人もいるものだね」 「ほんとーにな! まあ、恥ずかしがり屋の後輩ちゃんとかかなあって思ってるんだけど。白馬は探偵だったよな? 俺の妖精さん、推理とかできるんじゃねえの?」 「流石にそこまではできないよ」 自分が#名前2#にとっての妖精だとはカミングアウトしづらい。#名前2#はそうだよなあと笑いながら教室に入っていく。 その背中を見ながらどうやって彼に自分が妖精だと気づかせるか考えるのだった。 下駄箱に何か入ってた。リップクリームと昔よくやった折りたたみ式の手紙だった。ストーカーとかサイコとかメンヘラとか色んな悪い予想をしながらその手紙をそっと開いた。 リップクリームは薬用のものだったがパッケージに入っていなかったので触るのも気をつけた。 手紙には貰ってくださいという一言のみ。見覚えのあるノートの紙だった。普通の罫線ノートではなく黒板式に横に書けるというタイプのノートだ。頭の中にあの男が出てきた。 ――唇、乾燥してるね。大丈夫かい? ――平気だって、こんなの。 ――唇は手と同じ皮膚なんだから、気をつけないとダメだよ。食べ物を食べる時も痛くなってしまうだろう? これ、使ってみるかい?と渡されたリップクリームを手に取って唇に塗った。ちらと見た白馬の顔は真っ赤になっていた。 ――いいな、これ。 ――だ、だろう? 君も使うようになりなよ。 ――いやー、持ってるの面倒なんだよ。 あえてここは何も知らないふりをしてリップクリームを受け取り、手紙はカバンのクリアファイルの中にしまった。さて、これから白馬がどうするのか少し楽しみだ。