獣はないてしまった

!学生時代の七海の話  人が自分の人生に理由を見出すべきかどうかであるが、それらは個々人によって分けることができる。特におれのようなロシア文学を読んでも訳分からないくせに人間の人生を考え始めたら大変だ。英雄とおれの人生の厚みは全くちがうくせに、彼らとおれの命は同価値であると思えるから。  残念ながら、人の命も時間も平等じゃない。流れていく速度は公平でも、与えられている時間は人それぞれである。その点でいえば、娘は与えられている時間がもしかしたら相当短かったのかもしれない。  娘の背中に巨大な顔が出現した時、なにか幻覚でも見え始めたのかと自分が恐ろしかった。病院に行っても分からず困っていたところに、スーツ姿の女性がおれに声をかけた。呪霊に取り憑かれていますよ、と。頭の中では樹齢しか思い浮かばず「うちの娘は木じゃありませんけど!?」と言うしかなかった。  そのあと、女性に呪霊について教わり娘が誰かに呪われている可能性があると教えてくれた。おれは清廉潔白な人間ではない。ずるいところもあるし、人にいつだって優しいとは言えないが、誰かに恨まれるようなことを、呪われるようなことをしていたのだろうか。よく分からないが、そうなのかもしれない。言われるがままに依頼することになった。    おれの娘を助けてくれた人は七海と言った。おれよりも随分と年下で大丈夫なのかな……と心配したが「ご安心ください、お金をいただいてる分仕事は果たすつもりです」と言ってくれた。映画に出てくるようなへたなエクソシストたちよりよっぽど頼りになりそうである。ビジネスライクな正確なのか、お金も時間もきっちりしている人だった。娘は彼を見てものすごく怯えていたが、彼が突然歌い出すとびっくりした顔で彼を見ていた。おれも彼を見ていた。低い声で突然ハイホーを歌い始めたのだから。ビジネスライクなこの人が……? と思ったが歌詞は英語だった。そうだよな、日本語の歌詞じゃ合わないよなと謎に納得してしまった。  娘についた呪霊なるものはしっかりと祓われた。娘が笑ってる間にずばっと。意外にも小さな生き物だったが、娘を苦しめていたことには変わりない。まだまだ話すこともできない赤ん坊を抱きかかえて「ありがとうございます」と頭を下げると「こちらこそありがとうございました」と穏やかに笑われた。その笑顔はどこか覚えがあった。 「……すみません、どこかでお会いしたことありましたっけ?」  おれの質問に七海という人は「いいえ? ありませんよ」とすぐに返した。 「そう、ですか……」  じゃあ、見覚えのある顔というのはなにか別のことだったのだろう。仕事終わりでもう帰るという彼になにか食べていかなくていいんですか? と聞いたら「報告までが仕事ですので」と言われた。しっかりしている青年だ。  それでも娘が助かったことに感謝したいおれは「何かひとつ、お願いします!!」とクーポンチケットを見せた。男やもめで節約を大事にしている人間としてはクーポンは大切な収集物だった。七海はそれを見て思わず笑ったように顔を背けた。 「わ、笑ってます? やっぱりお金の方が……」 「いえ、大丈夫です」  七海はすっとクーポンの類にまみれていた本の栞を抜き取った。入っていることにも気づかなかったものを彼は目ざとく見つけていた。 「これを、頂きます」 「栞? 栞でいいの?」 「はい。これがいいです」  そういう風に言われるとこちらは弱くなってしまう。娘と一緒に手を振って挨拶したら彼はチャップリンのごとく手を挙げて去っていった。かっこいい……と思わず声がもれた。 * * *  その人は、俺のことを覚えてないようだった。それは全然構わないけれど、結婚したのか、まだ小さくてコロコロとしている娘がいるのにはビックリした。髪の毛はふさふさで目は#名前1#さんにそっくりだった。歯も生えてないので開かれた口は濡れた舌が見えるばかり。可愛いと思うと同時に、醜い嫉妬心が首をもたげた。  結婚指輪はしているのに女性のいる雰囲気はしていなかった。奥さまはどうされたのですか、と聞いていいのか悪いのか。迷っていたら彼の方から話してくれた。 「娘を産み落とした時に妻を亡くしてしまいまして。今思うと、あれも呪いのひとつだったのかなとも思ってしまいますよ」 「……そうじゃないと、いいですね」 「ですねえ。娘だけでも生き残ってくれて嬉しいってときに、娘も呪われてるなんてね」  おれはよっぽど恨まれてるんでしょうか、と言う。まあ貴方のことだから人の恋心を勝手に生み出しては容赦なく突き落としたりしていたんでしょうね、と心の中で返事をした。分かっている。彼にはそんな気はなかったことも。こっちが勝手に恋に落ちたのだから。  仕事は仕事。嫉妬心を押さえつけて呪いを殺してやると、赤ん坊はきらきらと笑っていた。綺麗な顔だと思った。幸せがありますように。まるで祈るようにその頬に触れた。やわらかい温かさだった。  仕事が終わったので帰ります、というと「もうですか!?」と言われた。少し嬉しかったが、仕事として来ているのだから私情は挟みたくなかった。#名前1#さんは「何か一つ」とクーポンチケットの束を出てきた。思わず笑ってしまったら#名前1#さんは恥ずかしそうにしていた。その表情は、好きになった時のあの顔と同じだった。  束の中に、一枚ちがうものがあった。栞だ。あの時も同じように栞をもらった。それを一枚抜き取るとにへらっと笑い、赤ん坊と一緒に見送ってくれた。やさしい世界は自分には似合わない。手を振るだけで、彼らはなぜか楽しそうに笑っていた。