詩人はあなたの代わりに泣くのです
「せいじ、一緒に美術館に行こうぜ」 奇跡の休みだった。#名前2#に誘われた先は西洋美術館だった。知らない展示会をやっていた。展示の説明を読み、これが宗教画であることを知った。近くにいた男が美術史をやっていたのか、というほどに歴史を語るので適度な位置取りでその声を聞いていた。#名前2#はそんな音など気にせず絵をじっと見ていた。途中から、自分も#名前2#の隣にいるようにした。人混みの中で#名前2#と手を繋ぎ歩いた。彼の手は温かかった。人の温もりには人を安心させる効果があるらしい。なのに、自分の父を亡くした悲しみは消えるどころかまた強く大きくなってしまった気がした。 #名前2#は賢かったし彼は美術についても造詣が深いのかと思っていた。#名前2#はじっと絵を見ている。その横顔がとても美しいと思った。 アートショップでは#名前2#は吟味してポストカードを選んでいた。俺は、どうしようか。こんなものを買っても仕方がないと思う自分がいた。自分の人生に芸術という価値を見出すことができなかった。 「せいじは何か買う?」 #名前2#はじっとこっちを見ていた。迷ったが、一枚だけ……この展示会での目玉となる絵を買うことにした。#名前2#は「それでいいの?」と聞いてくる。軽く頷いてレジの列に並んだ。 上野駅をおりて御徒町駅の方へ歩いていき適当に見つけたコーヒーショップの中に入った。#名前2#はコーヒーが苦手なくせにこういう店には見栄をはって入ってしまう。自分はここじゃなくてもよかった。 「……あの展示会とかさ。どうしてみんな行くんだろうな」 「え?」 「よく分かんねえなと思ってさ」 誘った方の#名前2#がそう言い出すのは意外だった。てっきり美術に関しても造詣が深いのかと思っていた。#名前2#の顔をまじまじと見たせいで彼はへにゃりと笑った。 「妹が行きたがってたんだ」 彼の妹は白血病で外に出ることができない。あのポストカードの選び方が真剣だったのは#名前2#ではなく妹のためだったのかと納得したのと同時にあのポストカードの意味がなんにもなくなったことを悟った。自分ばかりがいつも何か意味を求めてしまう。それが悔しかった。 「せいじは、医者になったら何したい?」 「……故郷へ、帰りたいって思ってるけど」 「あぁ……そうだったな」 故郷へ帰って、父さんの思い出を抱いて生きていくよ。そう言いたかったが、過去に執着しすぎるのはよくないと#名前2#が口癖に言うのを思い出してやめた。なんでこんな男を好きになったのか自分でもよく分からなかった。 「せいじはいいお医者さんになるだろあなあ」 「はあ? お前もいい医者になれよ」 「なれたらな」 #名前2#が笑いながら苦手なアイスコーヒーを飲むのを見ていた。彼のように生きたかった。彼の隣で、こんなふうに笑って一緒にいたかった。なんでそれができないんだろう。考えても、父の顔が思い浮かぶ。父の死を乗り越えられない自分はずっと#名前2#の背中を見ているしかない。前に、未来へ進む#名前2#の背中を。 浅井成実の目の前にいるのは、#名前1#笑美という少女だった。毛利探偵と一緒に来た少女は、おそらく、記憶が正しければ彼の妹のはずだった。 「ふっふっふ、わたし、毛利探偵の助手なんです!」 大きな声で自信満々に言って毛利探偵に怒られている。彼女は病気を乗り越えたのだ。それが自分の事のように嬉しいと同時に、こんな血塗れた事件の中に彼女を巻き込みたくなかった。だが、やらなければならない。過去の執着を断ち切るためにはこうするしかないのだ。 「あのぉ」 「!」 殺しに行こうとした時に、笑美がいた。彼女は見れば見るほど#名前2#と似ていると思った。大の字で立ち塞がる彼女はまるで番人のようだった。 「せいじ先生。お兄ちゃんの友達の、せいじ先生ですよね」 「……君は、あいつの妹であってた?」 「……せいじ先生。お兄ちゃん、死んだんですよ」 「……は?」 初耳だった。笑美はまっすぐと自分を見ている。嘘か本当か考えることもできずに笑美は畳み掛けた。 「お兄ちゃんの、移植してもらって。わたし、あの……。お兄ちゃんが、せいじ先生を助けてくれって」 だから、わたし、ここを行かせられません。笑美を殺そうか、いや、そんなことできない。#名前2#が助けた命だ。じゃあ、父の仇はどうなるんだ? やるせない気持ちが胸の中に渦巻いていく。毒だと思った。#名前2#という男は遅効性の、人を殺す毒だ。ここで仇の人間を殺せなければ、自分の今までの人生は全て意味が無くなる。 「わたしのエゴで、ごめんなさい」 笑美の涙が、今だけは憎かった。君が生きてなかったら、仇討ちは成功していた。だがそんなことは嘘でも言えなかった。医者の矜恃にかけて、その言葉だけは出せなかった。結局、人殺しは起きないまま父の仇たちは毛利探偵と助手である#名前1#笑美の活躍によって警察に引き渡されることとなった。#名前2#の言う過去との決別はとても呆気なく、自分の人生に引きずったあとをつくった影はいとも簡単に消えてしまった。 成実は真っ暗な公民館でピアノを弾いていた。人間の眼は闇に慣れるというが、きちんとした言葉を使えば杆体細胞が働いてロドプシンが増えていくのである。しかし、これが光をどこまで受容できるかと言えば限界はあり……今、成実は真っ暗闇の中で目をじっと凝らしてピアノの盤面を見ていた。父に教えてもらったピアノの音と同じ音とは言わないが、近しい、綺麗な音がする。誰かがこのピアノを大切にしてくれていたのだ。 #名前2#はピアノが好きだった。ぽたぽたと溢れる涙は光を余計に見えなくさせる。レンズの上にレンズが重なっている状態だ。目を拭うと、そこには#名前2#がいた。もう一度目を拭う。彼がいるようだった。 「……まぼろし?」 「じゃない」 「死んだって聞いた」 「1回心臓が止まった。でも、必死に助けてくれるお医者さんがいて助かった」 妹は嘘ついてないだろー、と#名前2#は言う。いつからいた? 成実の質問に「東京から警察きた時に。笑美から一緒に来いって連絡があってさ」と答える。 「………お前の妹、すごいよ」 成実が言えたのはそんな言葉だった。多くは語れなかった。涙は出てないのに自分の体には力が入らず、やるせない気持ちで#名前2#のことを見ていた。視線はときに口より何かを語ることができる。医療現場にいれば、それはよく知っている。 「おれもそう思うよ」 #名前2#のその笑みはなにを意味するのか。成実は何も言わずに彼を抱きしめた。彼の体の熱はしっかりと成実の冷えたからだを温めた。熱が溶け合い、伝わっていく。こぼれた涙が#名前2#の肩口を濡らした。まだ、この体を手放せなかった。